読経

 読経は身体によい。このことは以前から確信していたことだった。また一見単調にみえる動作におもえるが、単調ゆえの奥深さがあると思っていた。お経をあげることは一定のリズムにのって声を出す運動と考えれば、呼吸器は鍛えられるし、自律神経のバランスが整えられる。自慢するわけではないが、ぼくはここ20年間ほど咳をしたことがない。これはなによりも読経のおかげだと思っている。

 皆でお経を読みたい。一般の方から珍しい声があがった。彼女はぼくと同じくらいの年齢で、酪農ヘルパーをしながらアニマルウェルフェア(動物福祉)についての講演をしている方だ。いわく、お経を読んで身体と心をととのえ、そのうえで動物福祉について皆で考える場を設けたい、ということだ。場所は屈足寺本堂。話をいただいたとき、久しぶりに本堂がお経の声で満たされるかもしれないと思った。それと同時に、学生時代の記憶が頭に舞いもどってきた。

 京都で仏教を学んでいたころ、大きな法話の会があるとよく脚を運んでいた。六角会館や高倉会館という念仏道場のような場所では、定期的に当時大御所と呼ばれる僧侶や学者による講話が開かれていた。高倉会館では講話の前に親鸞聖人の「正信偈」(しょうしんげ)を参加者全員で読む習慣があった。毎回2、300人は集まっていたからまさしく「大唱和」だった。これほどの大人数でお経をあげることがはじめてだったので、いつも読んでいるお経でも全く新鮮におもえたし、迫力が身体に伝わって思いもよらない寒気が全身を貫いた記憶がある。このときはじめて大人数でお経を読む愉しさを味わったように思える。
 
 その後何年かたって、インドの仏跡を旅する機会に恵まれた。仏跡とひとことでいうとわかりづらいかもしれない。かの有名なお釈迦さん(ゴータマ・ブッダ)は王子として生まれて修行をするために城を出て、それから生涯をかけて途方もない距離を徒歩で移動している。その足跡を追うように約十日間のあいだにブッダが生まれたルンビニーや悟りを開いたブッダガヤ、そして最後ブッダが食中毒に苦しみながらついに息絶えた涅槃の地、クシナガラをバスで移動しながら参拝した。

 特に思い出深いのは涅槃の地、クシナガラである。仏跡の中心には涅槃堂と呼ばれる寺院があって、その中には体長6メートルほどの黄金にまとわれた涅槃像が置かれている。涅槃像の台座には、ブッダに最後まで付き添ったアーナンダ(阿難)が臨終のブッダを見守っている姿が控えめに小さく刻まれている。ブッダとアーナンダとの最後のやりとりは古いお経典に残っていて、その言葉は今も古びていない。原語はパーリ語と呼ばれる、インドの古い言葉である。

『アーナンダは尊師(ブッダ)の背後にいて、敷物によりかかって涙を流して泣いていた』
『やめよ、アーナンダ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。
アーナンダよ。わたしはかつてこのように説いたではないか。すべての愛するもの・好むものから別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということがどうしてありえようか。
アーナンダよ。かかることわりは存在しない。』(中村元訳『ブッダ最後の旅』より)

 この涅槃像を様々な国からの参拝者が取り囲んでいた。そしてそれぞれの団体が、それぞれお経を詠んでいる。石造りの建物であるからか、堂内で著しくお経が反響しあう。日本であれば、一組ずつお経が終わるのを待つだろう。しかしここでは関係ない。ミャンマーやタイ、ベトナム、日本のお経が四方から混ざりあい、混沌としながらも崇高な雰囲気を作りだしている。このとき気付いた。棒読みのお経はわれわれ日本だけで、他の国々のお経には音階があると。

 もちろん日本にも音階のあるお経があるが、一般的には棒読みのものが主流である。ただ涅槃堂で聴いた他国のお経はほんとうに今まで聴いたなかで格別だった。今でも耳の奥底に残っているような幽玄な響きだったのだ。このとき、お経の新しい魅力に気づかせてもらった気がする。

 今回屈足寺で正信偈を唱和したが、大切なのは「心地よく声を出せるか」という部分だとぼくは考えた。だから上半身の体操からはじめ、正座のコツを説明した。両膝の感覚は間に握り拳ひとつ入るくらい。足の指は親指同士が重なる感覚で。そして声だすときに意識はヘソから指三本分下の「丹田」(たんでん)というツボに置く。背中は無理に伸ばさない。上半身はとにかくリラックスしていることが肝心だからだ。

 正信偈は途中から節のついた念仏が入ってくるので、初めての方には難しかったかもしれない。しかし読経が終わったとたん余韻のような、あるいは残響ともいえるような独特の静寂が訪れた。参加してくれたかたには様々な感想をいただいた。「なにかとても懐かしい気持ちになった。それは自分の子供の頃どころか、生まれる以前に遡ったような・・・」。読経中には、悠久のときが流れているのかもしれない。

 お経を読むことは身体によい。それともう一つ、毎日お経を読むということは変化に敏感であるということである。一息でどのくらいの文字を読めるか、声の調子、脚のしびれ具合など、その日その日で微妙に異なってくる。自分の中身が変化していることに気づくと、自分が五感をもって認識しているこの世界の変化にも敏感になってくる。風の音や鳥の鳴き声、子供の表情の変化、玄関に置かれている君子蘭のつぼみは刻々と表情を変えながら成長していく。およそ生じ、存在し、つくられ、壊れるべきもの、それが生きるものの本質である。そしてその変化に敏感であり、寛容であること。このことをブッダはたしかに教えてくれる。

(寺報「ともしび」#59掲載)