「これから子供たちは、小説を読んだ方がいい」
ある方からこのような言葉をいただきました。
昨今はAIが小説を書いてしまう時代。そして子供たちは読書離れといわれ、タブレットで文章を読んだり、むしろほとんどの時間を動画をみて過ごすような時代。
屈足寺はそのような時代にあえて図書室の設置を試みました。
理由としては、まずは何よりも世界でも上質な本を作り続ける日本の本を無駄にしたくない、という思いからです。読書もタブレットで読む人も増えてきましたが、やはり紙の本の魅力は失われていません。一つの体系化された情報や物語が丁寧にパッケージされているということ。このことが特別な読後感を生むのだと思います。
また、「一冊の本によって人生の方向性が変わることがある」という現実的な理由があります。よい本の定義はいろいろあるかもしれませんが、一冊の本を読むということは、作者の体験を読者が疑似体験するということです。そういう意味でよい本とは、「この本を読んでほんとうよかった」という読後感があれば、読者にとっては人生を左右するようなよい本なのです。
遇−たまたま−
遇庵の遇とは、「たまたま」という意味です。鎌倉時代の僧侶、親鸞の『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)の最初には、この遇ということがいわれています。
「よろこばしいかな、西蕃(せいばん)月支の(インド)の聖典、東夏(中国)・日或(日本)の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行信証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって聞くことを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」
この文章には、親鸞がインドや中国の高僧たちや、そして師である法然を通して、連綿として受け継がれた念仏の教えに出会えたよろこびが、感慨深い表現によって記されています。そして「遇」という字には、「たまたま」と説明が加えられています。自分がほんとうの念仏と出会えたのは一つの奇跡のようなもの。さまざま偶然が折り重なって集約されたのが、親鸞にとっての念仏だったのです。
遇庵はもともとお寺にあった本がほとんどですが、中には「ぜひこの本を置いてほしい」という依頼による本も置いています。棚のスペースは限りがあるので、公共の図書館のように本の数は少ないですが、仏教の本を含め、「ふだん目がいかないようなところに連れていってくれる本」をテーマに整理しています。そしてスローペースではありますが、ほんとうに読んでよかった本を中心に、「お寺さん、ぜひこの本を」という本が溢れるくらいの濃密な図書室になることを願っています。
一冊の本を読むという行為も、様々な偶然と出会いで成り立っているとおもいます。そしてたった一冊との出会いで、人生のベクトルが変わってしまうこともあるのです。そういった本との出会いが生まれる空間であってほしい、そういった願いを込めて遇庵という屋号にしました。
現在(2023年10月)、遇庵はお寺で法要がある日、またはイベントのある日を中心に開けています。もしそういう日ではなくてもご覧になりたい場合は気兼ねなく寺の者に声をかけてください。
貸し出しについて
貸し出し期限はありません。テーブルの上にある『貸出帖』にご記入のうえ、いつになってもいいので読み終えたら返却願います。